邪馬台国人の髪型は?入れ墨もしてた?現代に残る風習も
2020/11/17 21:27
ライター:平田提
歴史 弥生時代 日本史学び直し 邪馬台国 卑弥呼3世紀の日本、弥生時代にあったとされる邪馬台国。邪馬台国の人々はどんな生活をしていたのでしょうか。3世紀の中国の歴史書『魏志倭人伝』には、邪馬台国の人々の生活・風習が描かれています。拍手や家族が別々の部屋に寝るなど、現代に残る風習もあれば、入れ墨など当時しかなかった文化もあります。
邪馬台国の人々はどんな格好をしていたのでしょうか。『魏志倭人伝』の記述から想像されるのは以下のようなものです。
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邪馬台国の人々の髪型ですが、男性は美豆良(角髪、みずら)という頭の横で髪を束ねる髪型をしていました。昭和~平成に流行した『ビックリマン』のキャラ「ヤマト王子」の髪型です。もしくはお笑い芸人コンビ、ハイキングウォーキングのボケ担当・鈴木Q太郎さんの持ちネタ、「卑弥呼様~!」のときにする髪型です。女性は頭の上でマゲを結う、一髻(ひとつもとどり)という髪型をしていたようです。
邪馬台国の男性は袈裟衣(けさい)といわれる身体の布を巻きつけるような服、女性は貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる、布地の折り目の中央に穴を空け、頭からスッポリ被るような服を着ていました。これは中国の江南地方やベトナム・ラオスなど南方系の文化に近いものです。
ヤマト政権の時代の衣服は、より動きやすい衣服になりました。男性は衣褌(きぬはかま)と呼ばれ下半身はズボン状のもの、女性は衣裳(きぬも)という着物に近いものです。これは北方系の騎馬民族の風習を受け継いだと考えられます。
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国の人々は大人も子供も顔・体に入れ墨をしていたそうです。これも衣服などと同様、南方系の影響と考えられます。南方ではワニやサメに襲われないためにそれぞれの動物の入れ墨を施す風習がありました。 4~5世紀のヤマト政権の時代以降は恐らく入れ墨の風習はなかったとされています。もし邪馬台国が畿内(近畿地方、奈良・大和)にあった場合、こういった風習が廃れたか、別の文化を持つ一族に支配権が移った可能性があります。一方、邪馬台国九州説をとると、入れ墨などはあくまで邪馬台国独自の風習だったと捉えられます。
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『魏志倭人伝』によると邪馬台国の倭人たちは稲作をし、養蚕(カイコを育てること)や麻の栽培をしていたようです。絹や麻布を着る、交換する文化があったんですね。 また「人の性、酒を嗜む」ということで、麹を使った酒造りがすでに始まっていたことも分かっています。
以降の日本には見られない風習として「持衰(じさい)」という独特の風習が邪馬台国にはあったようです。持衰とは、船出の際に一人を選んで隔離し、死者のように扱うもの。航海が無事に終われば持衰の役の者に褒美を与えますが、万が一事故があれば持衰のせいだとその人を殺したそうです。南方にもそういった風習がありました。
邪馬台国で人が亡くなったときには土を盛り上げて墓をつくっていたようです。死んだ直後からは十数日、殯(もがり)を行いました。肉食をせず喪主は声を上げて泣きます。他の人々は歌い踊り、酒を飲むそうです。この儀式は死者の名を呼ぶことで肉体から離れる魂を呼び戻そうとするものだったようです。『日本書紀』には6世紀の大君の葬儀の際、2年にも及ぶ殯(もがり)が行われたと記されています。
『魏志倭人伝』には誰かに呼ばれたとき「おう」と返事する風習が邪馬台国にはあったとされ、家族が別々の部屋に寝る、会合の際に飲酒するなど現代にまで残る文化もあります。
現代にまで残る邪馬台国の風習
ヤマト政権(以降)まで続いた?邪馬台国の風習
邪馬台国独自の風習
平田提
Dai Hirata
株式会社TOGL代表取締役社長。Web編集者・ライター。秋田県生まれ、兵庫県在住。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。ベネッセコーポレーション等数社でマーケティング・Webディレクション・編集に携わり、オウンドメディアの立ち上げ・改善やSEO戦略、インタビュー・執筆を経験。2021年に株式会社TOGLを設立。
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