邪馬台国はどこにあった?なぜ九州・畿内説に分かれるのか?
2020/11/06 22:21
ライター:平田提
歴史 日本史学び直し 弥生時代 邪馬台国 卑弥呼弥生時代の3世紀の日本で、女王・卑弥呼が治めたとされる邪馬台国(やまたいこく)。邪馬台国はどこにあったのでしょうか? 有力なのは北九州にあった説と、畿内(大和)説。なぜ議論が分かれるのか。『魏志』倭人伝や本居宣長、新井白石、榎一雄などの学説や最近の論について紹介します。
邪馬台国はどこにあったのでしょうか。 有力なのはこの2つの説です。
邪馬台国がどこか考える際にセットで考えなくてはいけないのは、弥生時代の後の古墳時代に勢力を増す、ヤマト政権。蘇我氏・聖徳太子の飛鳥時代や、天智天皇・天武天皇以降の天皇が政治をふるった時代には近畿地方に政治の中心がありました。いまの奈良や近江(大阪)、大津(滋賀)などですね。
もし九州説をとると、邪馬台国連合はヤマト政権とは別に形成された国の集まりで、ヤマト政権が後に邪馬台国を統合……あるいは逆に邪馬台国が東遷(東に都を移すこと)して、ヤマト政権になったと考えられます。
近畿説をとった場合、この時代の日本には近畿から九州まで大きな政治連合があり、それが後のヤマト政権になったと考えられます。『魏志』倭人伝などの歴史書や遺跡の調査などから、九州には邪馬台国以外にも中国と交易したり国内で争ったりした国がたくさんあったことが分かっているからです。
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なぜ邪馬台国の所在地について、九州説と畿内説があるのでしょうか。それは邪馬台国について書かれた3世紀中国の歴史書『魏志』倭人伝の解釈が分かれるからです。
『魏志』倭人伝には、倭国(当時の日本の国)で大きな争いがあったことが記されています。邪馬台国の卑弥呼が女王として即位すると、争いはおさまったそう。これにより29の小さな国が連合した邪馬台国連合ができたようです。239年に卑弥呼は魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、多くの銅鏡を授けられたとされています。
『魏志』倭人伝には卑弥呼のこと、邪馬台国の人々の暮らしぶりの他に、当時の中国が朝鮮半島に置いた拠点、帯方郡(たいほうぐん)から邪馬台国への行程が書かれています。この解釈が、議論を巻き起こすことになりました。
『魏志』倭人伝で邪馬台国への「スタート地点」になっている帯方郡は、朝鮮半島の北西、現在の韓国ソウル市あたりではないかとされています。そこから東南の狗邪韓国(くやかんこく、現在の金海市あたり)に移動し、日本海を渡って対馬、壱岐を経て、北九州の佐賀県・唐津湾岸あたりと見られる末盧(まつろ)国に向かいます。
(帯方郡から邪馬台国までは12,000里。1里(り)は約3.9キロメートル)
1.帯方郡
↓(7,000余里)
2.狗邪韓国(くやかんこく)
↓(1,000余里)
3.対馬(つしま)国
↓(南に1,000余里)
4.一支(いき、壱岐)国
↓(1,000余里)
5.末盧(まつろ)国
↓(東南に500里)
6.伊都(いと)国
↓(東南に100里)
7.奴(な)国
↓(東に100里)
8.不弥(ふみ)国
↓(南に水行20日)
9.投馬(つま)国
↓(南に水行10日、陸行1月)
10.邪馬台国
末盧国から伊都国、奴国、不弥国の大まかな位置についてはあまり議論がありません。不弥国は福岡の穂波町あたりではないかとされています。問題はそこから先です。
『魏志』倭人伝には不弥国から先について、こう記述されています。
“南、投馬国に至る水行二十日…南、邪馬台国に至る、女王の都(みやこ)する所、水行十日陸行一月”
※水行(すいこう)……船で海・川を渡ること ※陸行(りくこう)……歩いて陸を行くこと
不弥国からそのまま南に行くと九州の陸地上に投馬国があることになるのですが、さらに南に行ってしまうと、邪馬台国は海の上にあることになってしまいます(本当にそうだったら面白いですが……)。
そこで『魏志』倭人伝の記述に誤りがあるのでは、と考える説が出てくるようになりました。
江戸時代の政治家・学者の新井白石(あらいはくせき)は、上の『魏志』倭人伝の文の「南」を「東」と読み替え、大和説を打ち出しました。不弥国から瀬戸内海・日本海を経て、東に行ったのではないか、方角が間違っているのではということですね。「邪馬台(ヤマタイ)」と「大和(ヤマト)」の音が近いということもあります。
※ただし後に白石は九州説に転向しています。
江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)は『魏志』倭人伝の邪馬台国への陸行「一月」が「一日」の誤りだとして、邪馬台国九州説を唱えました。宣長は卑弥呼が魏に朝貢(貢ぎ物をおくりにいくこと)の事実を認めず、この考え方は尊皇思想などとともに明治期まで引き継がれました。
時代が進んで明治43年(1910)、邪馬台国大和説の『卑弥呼考』を内藤虎次郎が、九州説の『倭女王卑弥呼考』を白鳥庫吉がそれぞれ発表し論争が始まりました。
本居宣長、新井白石、内藤虎次郎、白鳥庫吉、いずれの説も原文を修正して読む必要がありました。
第二次大戦後の昭和22年(1947)、榎一雄は『魏志』倭人伝の邪馬台国へのルートについて、「放射状読み」という方法を考案します。伊都国の後は国を順番に進むのではなく、伊都国を中心に放射状に読むというもの。伊都国から東に100里に不弥国、伊都国から東南に100里に奴国……という具合です。
榎によれば、『魏志』倭人伝の記述が伊都国から少し書き方が変わっていることに注目したようです。それまでは「方位、距離、国名」の順で書かれているのですが、伊都国からは「方位、国名、距離」に変わるというのです。榎によれば、邪馬台国は筑紫平野の久留米市あたりにあるのではとされました。ただ、伊都国から放射式で読まなければならない根拠がありません。
伊都国はどうやら邪馬台国時代には外交の「出先機関」だったようです。『魏志』倭人伝の編者である陳寿(ちんじゅ)に邪馬台国までの道筋を伝えた使者は、伊都国まではやってきていたのではと考えられ、伊都国までの記述さはそれなりに正確ではないかとされています。ただ投馬国から邪馬台国までは使者の伝聞による記述のため、やや距離や方角に不安定さがあります(それまで距離の記述は「里」なのに、伊都国から先は「月」「日」とかかる時間で書かれています)。
武光誠『邪馬台国と朝廷』では『漢書』『後漢書』『三国志』など昔の中国の歴史書の距離の記載がアバウトであったことは認めつつ、方角の正確性は高かったのではないかと指摘しています。 ただ結局のところ、邪馬台国がどこだったのか結論はまだ出ていません。
平成元年(1989)に佐賀の吉野ヶ里遺跡から新たに大規模な環濠(かんごう)集落が発見され、邪馬台国九州説が強まりました。 一方、平成10年(1998)に奈良県・黒塚古墳から、卑弥呼が魏からもらったとされる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が発掘されました。三角縁神獣鏡自体は他の遺跡でも発掘例があり、作られた時代から魏のものではなく日本製ではないかという説もあります。
2000年代に入って、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡などの発掘・研究がさらに進み、最近は邪馬台国畿内(大和)説がやや強くなってきました。纏向遺跡は3~4世紀の遺跡でとても広い範囲に広がった、都市とでも呼ぶべき遺跡です。九州を含めた他の地方からの土器が多数発見されたり、最初期の古墳がここに集中していたりすることから、ヤマト政権の発祥地とされています。また卑弥呼の墓ともいわれている纒向遺跡内にある箸墓(はしはか)古墳があり、邪馬台国の候補としても有力です。ただ卑弥呼が魏からもらったはずの銅鏡など中国からの輸入品などは纒向遺跡からは出てきていません。また箸墓古墳は280年ごろにできたと考えられており、卑弥呼が亡くなったとされる247年ごろと時代が空いています。
邪馬台国畿内(大和)説をとる場合、卑弥呼は大君(おおきみ)、後の天皇家の祖先という解釈もできそうです。神功皇后(じんぐうこうごう)と卑弥呼を同一視する考え方もありました。ただ天皇家の歴史を記した『日本書紀』には天皇家が魏に朝貢した記録はありません。『魏志』倭人伝に書かれた邪馬台国の風習は、入れ墨を入れるなど東南アジアに近い南方系の文化。一方古墳時代は入れ墨の風習などなく、騎馬民族的な、北方文化に近いもの。この文化の移行がどうやって行われたのかも謎が残ります。
また北九州の古墳は大和より遅れて出現したこともあり、ヤマト政権とは別に北九州に邪馬台国があったものの、畿内のヤマト朝廷が邪馬台国を平定した、という説もあります。
バーに集まる常連客の3人とバーテンダーによる、歴史談義の小説。歴史学者の師弟に、在野の研究者とでもいうべき宮田という男が新説をぶつけます。一見突拍子もない説に思えるのに、証拠をどんどん挙げていくので信じてしまいそうになる。その展開が面白い小説で、「聖徳太子はだれですか?」「維新が起きたのはなぜですか?」などさまざまな歴史問題を扱います。タイトルにもなっている「邪馬台国はどこですか?」は、実は邪馬台国は岩手にあったのでは?という話。『魏志』倭人伝の記述通りにたどると、邪馬台国は九州の南の海で終わってしまうわけですが、昔の中国の地図では南北が逆だったのではと証拠を挙げていきます。そうすると、実は岩手あたりに……と繰り広げられる会話のテンポがよく、引き込まれます。考古学や科学でも、当たり前とされてきたことを疑うことで研究が進んだ事が多くあります。そういう意味で、この小説は頭の体操になる、知的ゲームのような作品になっています。
平田提
Dai Hirata
株式会社TOGL代表取締役社長。Web編集者・ライター。秋田県生まれ、兵庫県在住。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。ベネッセコーポレーション等数社でマーケティング・Webディレクション・編集に携わり、オウンドメディアの立ち上げ・改善やSEO戦略、インタビュー・執筆を経験。2021年に株式会社TOGLを設立。
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