『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』を読む。必要なのは弱さのデザイン?

Wed, Sep 2, 2020

ライター:平田提

ブックフォービギナーズ ウェルビーイング 読書 ドミニク・チェン
『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』を読む。必要なのは弱さのデザイン?

「ウェルビーイング」は雑誌『WIRED』などで特集されたり、内閣府のムーンショット型研究開発制度の「2050年度までに達成すべきこと」に明示されたりと、いま注目の考え方。ウェルビーイングとはいったい何か? 日本的なウェルビーイングとは何なのか。今回は『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために: その思想、実践、技術』(渡邊淳司/ドミニク・チェン監訳/ビー・エヌ・エヌ新社)を友人・栗原くんと一緒に読んでみました。

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栗原大輔くん
平田の学生時代の友人。思想・哲学に惹かれ、高校時代に理数科から文転。旅好き。

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平田提
高校1年生のとき、数学Ⅰ・数学A両方とも赤点をとり、文系しか選べなかった。いつかリベンジしたい。

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ウェルビーイングとは何か?

わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術

――今回2人で読んだのは『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術』(渡邊淳司/ドミニク・チェン監訳/ビー・エヌ・エヌ新社)という本です。読んでみてどうだった?

栗原:「ウェルビーイング」って言葉は聞いたことあったけど、詳しく知らなかった。この本の帯にも書いてある「身体的にも、精神的にも、社会的にも『よい状態』のこと」なんだね。「社会的にも」っていうのが幸福論とウェルビーイングの違うところなのかな。

ウェルビーイング「身体的にも、精神的にも、社会的にも『よい状態』のこと

最近は「AIが発達すると人間のやることがなくなる」って話をする人がいるよね。でも、じゃあ人間ってなんなんだってなってしまう。技術に疎外されてしまって、人が不幸になる。じゃあ人が疎外されないように、自分の存在意義を確かめられる方法は何なのかをこの本では追究してたんだろう。

――この本の著者の一人、ドミニク・チェンさんが雑誌『WIRED』の「デジタル・ウェルビーイング」特集に寄せられていたコラムが良かった。日本って個人主義じゃないから、本の題名にあるように主語「We(わたしたち)」で解釈する現象も多いんだよね。誰かと一緒に幸せな瞬間を共有したときのほうが、日本やアジアの文化圏は幸福度が高いという調査もあって。

栗原:そういう日本的ウェルビーイングの話が書いてあったね。

日本的なウェルビーイングの設計方法とは

――能楽師の安田登さんの話が面白かったな。俳人・黛まどかさんがパリの学生に俳句を教えるんだけど、なかなか「je(私)」って主語が抜けない。日本語は主語があいまいなことが多い。俳句はその瞬間を「詠む」芸術だよね。「読む」と「書く・声にする」が同時に起こる。主語は俳句に入らないから、自意識があるようでない。でもそこにその人が存在しなかったらその俳句は存在し得ない。矛盾してるようだけど意識・無意識が両立できる文化なんだよね。

一方でドミニクさんの項でもあったけど、Twitterやスマホとかのデバイスは個人主義的な世界観でつくられている。僕は日本文化的な主語のなさが、そういうテクノロジーとマッチしてないんじゃないかと思う。だからこそ、日本だけじゃないけど炎上やスマホに人が疎外されるようなことがあるのでは。

栗原:日本のTwitterとかSNSの同調圧力って海外と違うように見える。Twitter上で批判されたときの心の持ち方がね。海外だと「さあ議論しようぜ」ってなる人たちも多いけど、日本だと「ああ言われちゃったな、どうするか」と凹んだり反発したりする。

――ムラ社会的なものが拡張されている感もあるよね。

栗原:そうだね。Twitterって自分のためにつぶやくものだったのに、わざわざ誰かが言葉を拾ってコミュニケーションに回収されちゃうようになっている。

――Twitterの入力欄に「今なにしてる?」って書いてあるけど、これはまさに俳句の入力補助ツールみたいだね。その手軽さは日本の「詠む」文化にフィットしているのかもしれない。でもフォロー外の人から突っ込まれたり、拡散されたり……そういう機能が日本の精神性には合っていないのかもなあ。UIの設計が、ウェルビーイングを前提に設計されてないからというのはありそう。

日本的なウェルビーイングの設計方法とは

栗原:安田登さんの章で面白かったのは、聖徳太子の有名な「和を以て貴しと為す」(十七条の憲法の言葉)は、もともと『論語』の「礼の用は和を貴しと為す」だったと。「和のためにはまずは礼(秩序)が必要」という話が、聖徳太子によって「和そのものが大事なんだ」と置き換えられたという話。

いまの日本は同調圧力が強くなっているよね。新型コロナの影響で、自粛モードもあるんだろうけど。でももともと「和」って言葉が目指していたことって「私」の概念を捨ててみんなで意見を出し合って、良い答えが出るまで待つっていうものだった。

――そうだね。「和」には「様々な楽器を一緒に演奏する」って意味もあるって安田さんのコラムには書いていたね。いろいろ違ってもいいけど、一緒にいい音を奏でようというもの。考えるに、和の文化が良いときと良くないときがあって、良くないときは付和雷同、同調圧力になる。暗黙の了解で個の意見を潰してしまいがち。

和の良い面は、外に自分を置いたり主語を自分に置くことでうまくいくこと。鬱や怒りって自意識が強すぎてなるところもあると思う。俳句のように風景を見て外に自分を置くとか、和の心で自分以外の主語で考えるっていうのは、精神を落ち着かせて物事をうまく運ばせる日本の先人たちのライフハックなのかもしれない。ソーシャルデザインやテクノロジーの設計がそうなっていくといいなと思った。

栗原:和というのは、自我を主張するより他人が入ってくる余地があるってことなのかな。ディベートとかじゃなく、同じ音楽を奏でるには他人のスペースを用意しておかなきゃいけない。誰かが入ってくれる余地。特に日本にとってのウェルビーイングにはそれが大事なんじゃないかな。

「弱いロボット」にウェルビーイングのヒント有り

栗原:この本の中で一番面白かったのは、岡田美智男さんの「弱いロボット」。ゴミを集めるロボットを開発するとき、シャキシャキゴミを勝手に拾ってくれるロボットじゃなくて、ヨタヨタ歩きのゴミ箱型のロボットを作った話。ゴミを周りの人に投げ入れてもらったら、お辞儀をするだけなんだけど、すごいデザインだよね。目的としてはゴミが集まればいいわけだ。公園に集まってる子供たちも、ゴミを入れてお辞儀されると嬉しいよね。なんでもやってくれる完璧なロボットは、人が入る余地がない。弱いロボットは周囲の人が「助けてあげた」と思える。周りの人間の自律性を担保できるテクノロジーだよね。ロボット自体はチープだけど、関係性はリッチになる。そうやって人が入っていく余地を担保していくか、それを前提とした社会にしないと不幸になっていくんじゃないかなあ。

「弱いロボット」にウェルビーイングのヒント有り

――つまり「遊び」があったほうがいいんだよね。遊戯的な仕掛けもそうだし、余白の意味でのアソビも。自己完結してないからこそ自然と周りが助ける弱いロボットのデザインはすごい。

栗原:面白いのは、弱いロボットは弱さを開示するような設計になっているからこそ、それがのりしろになっていろんな人たちをつなげていくんだよね。完璧なお手伝いロボットに比べると経済合理性と合わない部分もあるかもしれないけど、そこの折り合いが付けられればいいなと思う。

ウェルビーイングは予防じゃなく予備。逃げ場のある社会

――以前2人で読んだ『娘に語る経済の話』にあったけど、もともと資本主義ってイギリスの貴族や商人たちが羊毛を輸出するために労働者に土地を貸して羊を与えて集約したようなところから始まってるんだよね。いま僕らが使ってるZoomの料金システムやUI、会社の雇用の形式とかも全部、もともとは西洋で生まれたロジックに乗っかってるんだけど、どこか日本文化の精神性にフィットしてない部分もあるんじゃないかと思うことがある。最近のメルカリとか、ギグ・エコノミーのシェア経済の概念は、どちらかというと日本文化の精神にフィットする流れな気がする。弱さのデザインも、そういう前提の中で生まれていったら良いんじゃないか。

ウェルビーイングは予防じゃなく予備。逃げ場のある社会

栗原:『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』の中にも、認知症のおじいちゃん・おばあちゃんを「徘徊させない=予防」じゃなくて、徘徊しても大丈夫なまちづくりをしようって考え方が紹介されていたね。弱さを弱さとして受け止めるソーシャルデザイン。閉じ込めちゃうのは効率的かもしれないけど、それって誰も幸せにならない。先回りしていろんなことを禁止していくのは息苦しくなる。じっくりとその人の可能性を待ってあげる姿勢は、寛容な社会に大事なことだよね。

――この本の中で伊藤亜沙さんが言われていた「予防じゃなくて予備」だよね。ネガティブなことを予防で防ぐんじゃなく、起きてもいいけど決定的なレベルにしないよう備えておく。その方がずっと「やさしい」。いまダイバーシティとかLGBTQとか話題になっても、予防的な考えが前提なことが多いように思える。逃げ場のある社会のほうが良いよね。

栗原:逃げ場がないといろいろ失敗できないし、一回失敗しちゃうと社会の脱落者みたいに見られるのはつらい。

――新型コロナの影響で、いわゆる水商売の人たちに補償がなかったり、水商売のところで感染が増えていて目が厳しかったりするよね。シングルマザーへの支援も始まっているけど、どこか弱さに対する社会の冷たさがすごいと思っていて。自分でも同じ立場になる可能性や、多くの人は既に同じような部分を持っているはずなのにそれを許容しない社会前提がある気がする。強さに寄り添うより、弱さに寄り添う社会じゃないと持続しないと思うんだよな。

栗原:結局その仕事選んだのは自分たちじゃん、努力してこなかったじゃんみたいな自己責任論の論調があるもんね。

日本的なウェルビーイングは「弱さのデザイン」?

――弱いロボットや安田登さんの話で、松岡正剛さんの『日本という方法』や『花鳥風月の科学』っていう本を思い出した。松岡さんの分析をざっくり僕なりに言うと、日本文化の根本は「ウツロイ(移ろい)」にあると。中心が「虚(ウツロ)」な「器(ウツワ)」に、あるいはそこから現実(ウツツ)に移ろい出てくるものを大事にする。

「虚」も「器」も「現」も「移ろい」も「ウツ」が共通している。例えば神社のお社や祠の中には何もないんだけど、風が吹いて吊るされた鈴が鳴ったときに神様が訪れ(オトヅレ、音連れ)たと昔の日本の人は考えた。茶室にしても枯山水にしても、中心がウツ。僕らをそのウツを埋めたり、ウツに何かを見出そうとする。弱いロボットの話でも、何もできない空っぽのゴミ箱を周りの人が埋めようとする。日本的なウェルビーイングやソーシャルデザインは弱さをデザインするのが向いている気がした。弱さをことさらに主張するよりも、ついつい助けてあげたくなっちゃう設計というか。

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栗原:面白いね、松岡正剛さんの話。この本に書かれていることを現実にするときに、どういう実践方法があるかは考えたい。弱さを織り込んだ社会デザインをどう形にしていくのかはテーマとして残ったな。 SDGsとか、新しい社会契約があったとしても、実際にはどう動かしていくべきなんだろうね。

――この本の最後に紹介されていたような、ワークショップそれ自体が仕事になっていくのも一つじゃないかと思ったな。会社の会議もワークショップだと思うんだけど、答えありきで進んでたりする。企業のプロダクトやサービスももともとは人の役立ち、ウェルビーイングのためにつくられているはず。洗剤や雑誌だってね。少しだけ考え方や会議、決定のプロセスを変えるだけでも、徐々にウェルビーイングに対応できていくんじゃないかと思った。

栗原:ウェルビーイングと経済合理性はは必ずしも対立しない、重なるところがあるってことだよね。そうやって折り合いを探していくのがいいんだろうな。

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