川端康成の作品と代表作、生い立ち・評価

Sun, Aug 30, 2020

ライター:平田提

川端康成 雪国 文学
川端康成の作品と代表作、生い立ち・評価

※画像はパブリックドメイン、ウィキメディア・コモンズより。 川端康成(かわばたやすなり)は『伊豆の踊子』『雪国』などの代表作がある日本の作家です。川端は明治32年(1899)6月14日、現在の大阪府・茨木市に生まれ、東京帝国大学(現:東京大学)に入学後は第六次『新思潮』を立ち上げ、作家活動を本格化させます。自然主義に反し感覚を重視する作風は「新感覚派」と呼ばれました。日本的な美を抒情的に描いた点が評価され、昭和43年(1968)には日本人として初めてノーベル文学賞を受賞しました。

川端康成についての概略

  • 名前:川端康成(かわばたやすなり)
  • 何で有名?:日本初のノーベル文学賞作家。詩的感覚を表現する新感覚派と呼ばれる。『伊豆の踊子』『雪国』などの作品を残す
  • 生年:明治32年(1899)6月14日
  • 没年:昭和47年(1972)4月16日
  • 出身地:大阪府大阪市天満此花町(このはなちょう)
  • 最終学歴: 東京帝国大学国文学科卒業
  • 代表作:『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『山の音』『眠れる美女』など

川端康成の生い立ち

幼少期に両親・祖父母・姉を亡くした川端康成

川端康成は明治32年(1899)6月14日、大阪府大阪市天満此花町(このはなちょう)に父・永吉、母・ゲンの長男として生まれます。 明治34年(1901)に父が死去。明治35年(1902)に母が続いて亡くなり大阪府三島郡豊川村(現在の大阪府茨木市)の祖父母の家に預けられます。明治39年(1906)に祖母が死去、明治42年(1909)には別の家に預けられた姉と死別。しばらくは祖父と二人暮らしとなります。後に発表される『十七歳の日記(十六歳の日記とのちに改題)』は、祖父の看病記でした。明治45年・大正元年(1912)に大阪府立茨木中学校に入学。中学2年ころから文芸雑誌を読みふけり、作家を志すように。大正3年(1914)、唯一残った家族の祖父も亡くなり、川端少年は孤児になります。

川端康成は上京後、第六次『新思潮』を創刊。プロの作家に

川端康成は豊里村の伯父の家に一時引き取られますが、大正4年(1915)には茨木中学の寄宿舎に入ります。この頃、白樺派の作品を好んで読むようになり、短編小説や短文が茨木の新聞や雑誌『団欒(だんらん)』、『キング』などに掲載されます。大正6年(1917)中学を卒業後、上京。第一高等学校一部乙類(英文学)に入学。 大正7年(1918)、川端康成は初めて伊豆に旅行。旅芸人の一行と出会い、この経験が代表作『伊豆の踊子』に活かされました。以降10年間は毎年伊豆に滞在するようになります。 大正9年(1920)、川端康成は東京帝国大学英文学科に入学。夏目漱石の門下「木曜会」の芥川龍之介などが発刊していた雑誌『新思潮』の第六次発刊を友人らと計画し、第三次・第四次『新思潮』の作家・菊池寛(きくちかん、ひろし)に了解をもらいます。『新思潮』第2号に発表した『招魂祭一景(しょうこんさいいっけい)』が菊池寛、久米正雄などに好評となり、『南部氏の作風』を『新潮』に書き、初めて稿料をもらいます。この年、国文学科に転じます。

川端康成は新感覚派と呼ばれるように

川端康成は新感覚派と呼ばれるように

※川端康成と『文芸時代』のメンバー。画像はパブリックドメイン、ウィキメディア・コモンズより。

関東大震災の翌年、大正13年(1924)に『文芸時代』を創刊、この雑誌に参加した川端康成や横光利一らは自然主義に反して詩的感覚を表現する「新感覚派」と呼ばれるようになります。この頃発表された『掌(たなごころ)の小説』などには映画撮影のショットの技法に通じる表現がよく見られます。川端康成はこの当時新興芸術だった、映画の影響を受け、『狂つた一頁』というシナリオを書き、これは映画化もされています。 昭和8年(1933)には小林秀雄らと『文学界』を創刊。犬や小鳥の愛育家としての経験を活かした『禽獣(きんじゅう)』を発表。昭和10年(1935)には創設された芥川賞の選考委員となります。この頃からのちの『雪国』となる短編を『文藝春秋』『婦人公論』などに発表しています。

川端康成はノーベル文学賞を受賞。友人たちの死と自死

川端康成はノーベル文学賞を受賞。友人たちの死と自死

※画像はパブリックドメイン、ウィキメディア・コモンズより。

戦後、昭和20年(1945)~昭和27年(1952)にかけて島本健作、武田麟太郎、横光利一、菊池寛、林芙美子、久米正雄などの盟友を亡くします。日本ペンクラブ会長として会員とともに広島、長崎に出向いています。この際京都にも立ち寄っており、昭和36年(1961)の『古都』にはこのときの経験が影響を与えました。連載していた朝日新聞の「作者のことば」には「私は日本の『ふるさと』をたずねるような小説を書きたい」と書いていました。昭和35年(1960)には老人と催眠薬で眠らされた若い娘の話『眠れる美女』を発表。 昭和43年(1968)にはノーベル文学賞を受賞。日本人初の受賞となりました。ハワイ大学やサンフランシスコなどで日本の美について講演。昭和45年(1970)、三島由紀夫の割腹自決があり、「年少の無二の師友」の死に川端はショックを受けます。 和47年(1972)、急性盲腸炎で入院手術後、8日で退院。翌日、逗子の仕事場のマンションでガス毒自殺。享年72でした。

川端康成の評価

川端康成は日本初のノーベル文学賞を受賞しました。1960年代には三島由紀夫、谷崎潤一郎、詩人・西脇順三郎も候補に。川端康成の選考理由について発表されている受賞理由は「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」というもの。また後年「日本文学の真の代表者として、彼に賞を与えることは正当である」という当時のエステリング選考委員長の言葉が明らかになりました(2019年1月2日/日本経済新聞)。『雪国』『千羽鶴』『古都』など、日本人の心のエッセンスを伝える点が評価されたようです。

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川端康成は『雪国』の受け入れられ方について「私の作品のうちでこの『雪国』は(略)、日本の国の外で日本人に読まれた時に懐郷(かいきょう)の情を一入(ひとしお)そそるらしいといふことを戦争中に知つた」(『独影自命』、カッコ内は筆者)と言っています。『雪国』は戦地でも読まれ、作品に描かれた、懸命に生きる女性の姿や日本の風景の美しさに懐かしさを覚える人が多かったようです。 三島由紀夫は川端のノーベル文学賞を讃える手紙の中で「日本の多くの作家にとって、伝統と新文学確立はほぼ両立し得ないが、川端はこの矛盾を超越している」と評しました。 日本古来の美を抒情的な表現と海外文学の知識や新しい経験でアップデートしていく感覚が、川端文学の特長と言えるでしょう。

参考資料:

  • 川端康成『雪国』新潮文庫
  • 『新潮日本文学アルバム 川端康成』新潮社
  • 大阪府茨木市・川端康成文学館展示資料
  • 五味文彦・鳥海靖 編『もういちど読む 山川日本史』

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