川端康成の特徴「末期の眼」と映画のパンフォーカスの関係

Thu, Sep 17, 2020

ライター:平田提

文学 川端康成 映画
川端康成の特徴「末期の眼」と映画のパンフォーカスの関係

最近、川端康成の『雪国』を友人と読んだpodcastの文字起こしをしていて気づいた話です。『雪国』は主人公の島村って男が、駒子っていう越後湯沢にいる芸者さんに会いに行って、不倫旅行みたいなことをするっていう、そう言ってしまうと元も子もないんですけど、そこで語られる情緒が美しい作品です。

川端康成『雪国』に表れる抒情&非情

島村は川端康成曰く「駒子に対する鏡のようなもの」として設置したっていう風に書かれてあるんですね。自分自身がモデルでも何でもないと。友人の栗原くんと『雪国』の話をしてたとき、「島村って『装置』みたいだよね」っていう話になったんです。『雪国』の最後の方で、天の川が島村に流れこんでくるみたいな表現があって、そのときはものすごい火事が起こっていて、島村に天の川が流れ込んでる場合じゃないんですけど。

川端康成『雪国』に表れる抒情&非情

『雪国』の有名な冒頭「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。夜の底が白くなった」とか、その汽車で葉子という女性が車窓に映った姿と灯火を重ね合わせるような表現とかがすごく映像的なんです。そこがカメラ的というか、それは島村の視点を切り取ってるからで、そこがやっぱり「装置っぽいな」と思ったんですよね。

川端康成「末期の眼」と映画のパン・フォーカスは似ている

川端康成は「新感覚派」と呼ばれているんですけど、関東大震災の後ぐらいに映画の脚本を書いたりして映画化もされてるんですけど、『掌の小説』以降の川端康成作品には、映画のカメラワークなどが活かされている。

カメラというと、すべてに焦点を合わせるパン・フォーカスという技法があります。フランスの映画批評家、アンドレ・バザンなども指摘していたと思うんですが、パン・フォーカスは全てを均一に扱っているようで、全てを均一に重視していない。事物の美しさを映すと同時に、非情とも言える。川端康成の『雪国』で、虫の死骸を転がしながら家に置いてきた子供のことを思い出すシーンがあるんですが、そこも抒情的な表現と非情が重なってるんですよね。川端康成自身はこれを「末期の眼」と呼んでいました。

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川端康成「末期の眼」と映画のパン・フォーカスは似ている

俳句には主語が入らなくても違和感がない

川端康成自体の和歌的な素養とか、日本古来のものと新しい表現をつなげる作風と、抒情と非情が同居するのはつながっているように思えます。和歌も俳句も、主観が洗われるようでそこには表れない。その人がそこに介在してその瞬間を切り取るからこそ歌が生まれるんですけど、そこに「私が」とかそういうものは出てこないんですよね。

『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』っていう本で紹介されていたのが、俳人・黛(まゆずみ)まどかさんがフランスの学生に俳句を教えていた話。パリの学生の作品からはなかなか「je(私)」という表現が抜けなかった。日本人って主語のなさや主観のなさを自然そのまま受け入れられるところがあると思うんです。それが日本の表現の文化の底には有る気がします。

自我を出さずに表現する「竜門の琴」

岡倉天心の『茶の本』の中で「竜門の琴」(琴ならし)という故事が紹介されてるんです。ざっくり言うと、なんかものすごく大きな木が昔の中国の竜門の谷にあって、地下に眠る龍に絡まっている。その木を切って琴をつくった妖術師がいた。ただその琴を上手く弾ける人がいなかった。著名な演奏家がそれぞれの方法で琴を弾くんですが、全然うまく弾けない。そのうち伯牙(はくが)という人が来て、演奏したら聴く人が超自然的な体験した感覚になるぐらい、良い演奏になった、と。なぜできたのか帝王が伯牙に聞くと「他の人々は自己のことを歌ったからうまくいかなかった。私はことに任せました」という。

岡倉天心は

「真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である」(『茶の本』68頁/岩波文庫)

といっています。

全然ジャンルは違いますけど、みうらじゅんさんも「自分なくし」を提唱している。自分をなくしたほうが、表現の良さに結びつく。

T.S.エリオットの言う、詩人と触媒

T.S.エリオットの言う、詩人と触媒

外山滋比古さんの『思考の整理学』でも詩人のT.S.エリオットがプラチナが触媒となった化学反応のアナロジー(類比)で詩人の在り方について述べた内容が書かれています。

“詩人は自分の感情を詩にするのだ、個性を表現するのである、という常識に対して、自分を出してはいけない、とした。個性を脱却しなくてはならないというのである。(略)その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、“個性的”でありうる(外山滋比古『思考の整理学』55頁/ちくま文庫)”

化学反応をわざと起こすんじゃなくて、そこにただ存在してるだけでいいみたいなもの。その場に存在してるだけでもいいんだけど、その人がそこにいなきゃダメみたいな話がその創作にもやっぱりあるんじゃないかなと思っています。

※『ファイナルファンタジー』シリーズなどのドット絵を手がけられたデザイナー・渋谷員子さん(スクウェア・エニックス)に取材させてもらったことがありますが、渋谷さんご自身はあまりゲームをされないそう。しかしドット絵にこめる情熱は強く、かつ当時のブラウン管の画面を通した色味の計算などとてもロジカルに仕事に取り組まれていました。ただ出来上がったグラフィックは私を含む当時のプレイヤーたちに渋谷さんの仕事として記憶に残っており、自分の趣味的なもの以上に仕事にこだわった結果、個性が出るものなのだなと感じた体験です。

渋谷員子インタビュー/僕らがFFのドット絵に心を動かされる理由

兼松佳宏さんの 『be の肩書き』とか、西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』シリーズなどの働き方や「在り方」の話にも通じますが、そこに介在するだけで表現になってしまうっていうことがあるんでしょうね。 そんな風に『雪国』の島村のカメラ的な立ち位置、「抒情」と「非情」の同居、パンフォーカスの話、「竜門の琴」やエリオットの話につながっていったのがすごく面白かったです。

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