一神教と多神教の違い。砂漠で1つの答えを求めるか、森で多様な声を聴くか

2020/08/31 11:27

ライター:平田提

日本文化 松岡正剛 宗教
一神教と多神教の違い。砂漠で1つの答えを求めるか、森で多様な声を聴くか

一神教と多神教の違いについて、佐治晴夫さんの『からだは星からできている』(春秋社)、本村凌二さんの『多神教と一神教』(岩波文庫)、松岡正剛さん『日本という方法』(NHKブックス)などを参考にお話します。

こちらの記事はpodcast(音声)でお聴きいただけます。

一神教の宗教/多神教の宗教の例

まずは一神教と多神教の違いについて。言葉のとおりですが、下記の違いがあります。 宗教として体系だった組織を現在も持つものもありますが、神話としてのみ残るものもあります。

  • 一神教=唯一神しか存在しない
  • 多神教=多くの神が存在する

それぞれの例は以下のとおりです。

  • 一神教……キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ゾロアスター教(※)など
  • 多神教……日本神話(神道)、ギリシャ神話、ローマ神話、エジプト神話、インド神話、ディンカ族の神話(スーダン)、ドゴン族の神話(マリ)など

※イラン高原などで広がったゾロアスター教(拝火教)は善悪二元論で語られることが多いが、神は創造神アフラ・マズダーのみ。

多神教は、森の膨大な情報を処理する必要性から

多神教は、森の膨大な情報を処理する必要性から

日本やインドなどの多神教は、元々はアニミズム(自然信仰)から始まっていて、日本人の場合は森の中で暮らしていて、多様な生命の中にいる、静けさもあるんだけど、突然襲われる可能性があるような世界です。まず森のおびただしい数の情報をまず収集する必要がある。動物のこと、植物のこと、ここでは何が起きるかとか。それで山とか風とか川とか動物とかその場に対応する神を用意したりする。それが日本でいうと八百万(やおよろず)の神とかに繋がっていったんじゃないか。

参考:佐治晴夫『からだは星からできている』(春秋社)

一神教は砂漠で1つの救いを求める心性から

一神教は砂漠で1つの救いを求める心性から

一方、一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教は元々の根源をエジプトあたりで一緒にしていますが、砂漠の中で歩いてのどが渇いて一つの神に対して救いを求めるのが元になっているかもしれないと。飢餓状態などからの救いみたいなものは、一つの正解を求めるってこと、ジャッジメント(裁き)、一人が結論を下すことにつながる。 いずれにしろ、宗教が生きのびるために生まれていて、それが砂漠か森か、どんな状況に一番困っていたか、の成り立ちが違うのかもしれません。

アルファベットが広まった地域と一神教のつながり

アルファベットが広まった地域と一神教のつながり 多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ

『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』の本が面白いのは、アルファベットの分布された地域で一神教が広がっているって話です。ギリシャ・ローマにしてもそうですけど、フェニキアの文字とかから始まった「牛の頭」を意味する「アルファベット」の文化が広まっているところです。 日本の場合は、最初は文字がなくて声しかなかったとされています。文字は渡来人経由で輸入して、万葉仮名とかで音を当てていって、そのうち漢字を崩してひらがな・カタカナを自分たちで発明していきました。日本の声の文化と、文字の文化の一神教の違いは面白い話ですよね。

「始めに言葉ありき」の新約聖書、神の不在に慣れていた日本人

「始めに言葉ありき」って新約聖書(『ヨハネによる福音書』)の言葉もあるように、ロゴス(ギリシャ語で「言葉」「論理」)というか、言語とロジックが一神教にとってはすごく大事なんだろうなと思います。それが一つの答え、砂漠の中からの救済としての神につながると思うとすごく興味深いですね。松岡正剛さんの『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』『花鳥風月の科学』っていう本は、さらに日本的な神様の解釈の仕方が面白い本です。神道は日本古来というより結局中世に整理されたもので、日本ってずっと玉石混合の信仰だったよっていうのが松岡さんがおっしゃっているんですけどね。松岡さんによると、日本の多神教って神体山(しんたいさん)という、山に神を見い出す文化が元にある。「なんか不思議なところだな」「神々しいな」とかそういう「感じ」をまず捉えて、そういった場所を「神奈備(かんなび)」「産土神(うぶすな)」と呼んだ。そこに注連縄(しめなわ)や神籬(ひもろぎ)で印をつけて、やがて社(やしろ)を立てるに至った。それがいまの神社の成り立ちなんじゃないかっていう話です。その社っていうのは「屋代」とも書く。つまり「屋根のある家の、依代(よりしろ)」なんですね。「代(シロ)」は何かの代わり、エージェントなんですよね。そこに何かが現れる。

虚(ウツ)から現(ウツツ)に移(ウツ)ろう神 日本という方法 おもかげ・うつろいの文化

松岡さんが言われていることで面白いのは、「日本人は神の不在に慣れていた」ってこと。日本では旧暦の10月を神のいない月「神無月(かんなづき)」と呼びますよね。出雲の方だと「神在月(かみありづき)」になりますけど。神様が来られることを「影向(ようごう)」といいますが。「影が向かう」ってあやふやなだけど、なんとなく分かる感じ。あと神様が来るのは「訪れ(オトヅレ)」ともいいます。「訪れ(オトヅレ)」は「音(オト)を連れ(ツレ)る」とも書くんですね。鈴の音が風によって鳴ったら神様が来たって判断するとか。でも見えはしないっていう、日本人はそういう風に何もないところに神を見い出したり、空白を想像力で補ったりする文化なんですよね。

虚(ウツ)から現(ウツツ)に移(ウツ)ろう神

松岡さんが『日本という方法』では説明されてるんですけど、日本の文化の根本には「移ろい(ウツロイ)」があると。中身が「空・虚(ウツ)」の「器(ウツワ)」に何かが「移(ウツ)ろって」現れる。全部「ウツ」が入っている。「現れる」って漢字も訓読みすると「現(ウツツ)」なんですよね。ウツからウツツにウツロイ出てくるときに、「面影(オモカゲ)」、英語だとProfile(プロフィール)が現れ出る。「面(オモ)」は「面白い(オモシロイ)」「面映い(オモハユイ)」と同じです。松岡さんによればそういう感じ方がまず古代の日本にはあったようです。

律令国家形成に活かされた仏教と神道が混ざり合う

そこに仏教が入ってくる。仏教伝来は百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から538年あたりに公式では行われたようですが、その前から渡来人などによって、民間レベルでは入ってきていたそうなんです。蘇我氏や聖徳太子の時代に仏教を国策に入れていったわけですが、彼らが豪族の敷地内に氏寺を立たせたのは信仰心を広めるのと同時に、朝廷への忠誠を誓うためだったようですね。『日本書紀』などによると。仏教の教義もそうですが、律令国家をつくり管理するため、また当時最大の勢力を誇っていた隋、のちに唐という中国の国、海外との外交の共通の話題としての仏教という意味合いもあった。

もともと外国の宗教である仏教が入ってくるという話は、手塚治虫先生の『火の鳥 太陽編』に描かれていますけど、元々仏教は多神教なんですね。とはいえ最初はブッダによる悟りの教えの記録だけなので、インドの古来の神が仏教にどんどんを融合していってしまったようなんですけど。日本でも結局仏教が取り入れられて、独自の発展をしていくんですが、面白いのは日本神話のアマテラスと仏教の大日如来を重ねて見るなど、神仏習合という動きが出てきて、神も仏もいっぱいいる状況が日本では当たり前になった。しかも神と仏が一緒になったり。そういう風に過去の日本人って輸入したもののバリアント(異種)、バリエーションをつくるのが得意な人たちなんだろうなと思うんですよね。

日常の一神教的「ロジック」と多神教的感性はマッチしない?

個人的に思うのは、一神教的なロジックってビジネスの現場でも大事にされてるんですけど日本に住んでる人、日本的なものに惹かれる人たちって多神教的な曖昧さとか多様な文化の混合・衝突みたいなところに興味があると思ってるので、一つの答えを出すことよりもあやふやなままにしておいたりとか「それでうまくいったらいいじゃん」ぐらいの方が合っているんじゃないかなと。 私は関西に移り住んだんですが、関西って「八日戎(えびす)」「十日えびす」とか東日本より(個人的には)神社・仏寺にまつわるイベントが多い印象があって、多神教的な風土が強いかなと思っています。それと関係あるかは微妙ですが、関西の会社で会議に出ると、何か話し合っても結論が出ないまま終わることが私の場合は多かったんですね。本当に個人的な感想ですけど。いろいろ話し合っても「あれ答えなんでしたっけ」を確認する会みたいな感じで、答えを出すというより確認・交流がメインになっている。でもそれはそれで意味があるんだろうなって僕は今は思うんですけど、そういう1つの答えを出すシステムが、日本で働く人たちの嗜好性にあまりマッチしてないんじゃないかなとも思うんです。それはオフィスの、例えば Slack とかのいろんなツールもそうで、全部西洋的なロジック、発想で作られているわけです。『ウェルビーイングの設計論 ―人がよりよく生きるための情報技術』や『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術』っていう本でも書かれてるんですけど、 Twitterで炎上が起こりやすくなっていたり、フィルターバブルが起こったりするのも、結局 UI の設計に問題があるかもしれない。リツイートできたり、引用 RT ができたりするのは便利だけど、設計思考が西洋的なので、オフィスの製品とか決済システムとか、一神教なロジックと多神教的な曖昧模糊としたところに意味を見い出すような感性がマッチしてないんじゃないか。 これはかなり誇張した考え方ですけど、そういうふうに一神教と多神教の違いっていうのは私たちの生活レベルにも入ってきてるんじゃないかなって思います。

参考文献

  • 佐治晴夫『からだは星からできている』(春秋社)
  • 本村凌二『多神教と一神教』(岩波文庫)
  • 松岡正剛『日本という方法』(NHKブックス)
  • 松岡正剛『花鳥風月の科学』(中公文庫)
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平田提
Dai Hirata

株式会社TOGL代表取締役社長。Web編集者・ライター。秋田県生まれ、兵庫県在住。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。ベネッセコーポレーション等数社でマーケティング・Webディレクション・編集に携わり、オウンドメディアの立ち上げ・改善やSEO戦略、インタビュー・執筆を経験。2021年に株式会社TOGLを設立。

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