「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」はなぜ志賀島の金印をもらいに行った?
2020/10/30 14:52
ライター:平田提
歴史 日本史学び直し 弥生時代※画像はウィキメディア・コモンズより。
1784年(天明4年)の江戸時代、福岡県志賀島である農夫が偶然掘り出したもの。それが「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と書かれた金印(きんいん)でした。こうした印は文章の秘密を守るための封印に使われていました。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」とはどんな意味で、なぜ金印をもらいに行ったのか。この発見にはどんな歴史的意義があったのでしょうか。
江戸時代からさかのぼった弥生時代(紀元前4世紀~紀元3世紀頃)には金属器の使用で水稲農耕が進化し、穀物の保管が可能になり、貧富の差が生まれ始めていました。やがて権力者を中心としたムラ、クニの共同体が生まれ、日本列島の中には小さな国が乱立していたようです。
昔の中国、前漢(紀元前202年~紀元後8年)の歴史書『漢書』地理志(かんじょちりし)には、楽浪郡(らくろうぐん)に「倭人」が使者を送った記録があります。
“夫(そ)れ楽浪郡海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳時を以て(定期的に)来り献見すと云ふ。”
「倭人(わじん)」とは当時の中国による、日本列島の人々の呼び名。この『漢書』地理志の記載が、中国の正史での最古の記録です。当時の前漢は朝鮮半島まで勢力を伸ばし、4つの郡を置いて支配を進めました。楽浪郡はその1つ。楽浪郡を通じて日本は青銅器や石器を輸入し、日本からは青玉(せいぎょく、ヒスイ)や真珠などを輸出していました。
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そしてさらに詳細な日本についての記録が登場するのが、前漢のあとの後漢(25~220年)の時代。『後漢書』東夷伝(ごかんじょとういでん)の中には、紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都・洛陽(らくよう)に赴き、光武帝(こうぶてい)から印綬を授かった記録があります。
※画像はウィキメディア・コモンズより。
“建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。”
※建武中元二年……57年。
この「印綬」が、江戸時代に志賀島で見つかった金印ではないかとされています。金印は弥生時代にすでに日本と中国の外交が始まっていた証であり、それが金印発見の歴史的意義でした。この金印はのちに福岡藩主・黒田家にわたり、今でも黒田家の所蔵品ですが福岡市博物館の常設展示で見ることができます。
「倭人」という呼び名は「小さい人」「いやしい人」などの意味があるのではないかという説があります。『後漢書』東夷伝の「東夷」も「東に住む異民族」という蔑称とされていて、他に「北狄(ほくてき)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」などと中国の東西南北に住む人々の呼び名がありました。
というのも、中国には「中華思想」があります。中華思想とは、中国が世界(宇宙)の中心にあるというもので、周辺諸国は蛮夷という野蛮な民族としての認識があったようです。中国にとって当時の日本は「東夷」の1つでしかなく、『漢書』地理志に『後漢書』東夷伝にも少ない記述しかありませんでした。それから卑弥呼の邪馬台国、ヤマト政権、聖徳太子の奈良時代、天智天皇、天武・持統天皇の時代に日本がどんどん統一されて国家体制が整っていくと、日本についての記録が独立して残っていくようになります。
倭の奴国王の使者はなぜ金印をもらいにいったのでしょうか。
『後漢書』東夷伝の続きを読んでみましょう。
“安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相(あい)攻伐(こうばつ)して歴年主なし。”
※永初元年……107年。 ※生口……生きている人、奴隷のこと。 ※桓霊(かんれい)の間……後漢の桓帝、霊帝の時代の147~189年のこと。
金印をもらいにいった50年後、107年には倭国王帥升(すいしょう)らが漢に朝貢、すなわち中国の朝廷に対し貢ぎ物を贈っていたことが分かります。
この頃は日本列島の中で乱立した小国が対立しています。当時の中国は「冊封(さくほう)関係」という、その土地の領有権を認める代わりに、実質的に中国が上に立つ君臣関係を周辺諸国と結んでいました。いわば中国のお墨付きを得ることで、より優位な立場を得るために倭国の人たちが朝貢していたと推察されます。
※画像は漢~晋にかけての時期の、中国の印綬。メトロポリタン美術館より。
では「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」とはどういう意味なのでしょう。当時の九州には「奴国(なこく)」と「伊都国(いど(と)こく)」という二大勢力があったようです。
「漢委奴国王」の解釈には2通りあります。
「1」の場合、日本のように「倭」の国があり、その中のさらに奴国があった、と解釈できます。ただ「倭国」といっても、関東や東北までを含む本州のことではなく、九州北部の一帯に過ぎない可能性が高いです。 「2」の場合は「伊都国」の読みはそのまま、漢字を入れ替えた説です。 中国が冊封関係を結ぶ中で与えた印綬の文面は、王朝名→民族名→部族名とくるのが通例。そのため「漢」の「倭(民族)」の「奴(部族)」と読む説が有力です。
ただ「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」が伊都国の王であった説にも根拠があります。江戸時代の天明に現在の福岡県糸島市で、(金印と同様に)ある農民が古代の壺を発見したとされています。それが井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡で、発掘が進むと銅鏡やガラス玉などの当時は希少だった漢からの舶来品が副葬品として納められていたことが分かりました。棺に赤い色が塗られているなど後期な身分の人物の墓であったことが推測されます。伊都国の場所が糸島市付近(もしくは福岡県西区、旧怡土(いと)郡)と考えられているため、井原鑓溝遺跡は九州付近を支配していた伊都国の王の墓で、帥升は伊都国の王だったのではないかとも考えられるのです。
ちなみになぜこうして中国の歴史書ばかりを根拠にするかというと、残念なことに日本にはヤマト政権~飛鳥時代まで文字がなかったので、記録が残っていないためです。
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このあと3世紀、『三国志』の「魏(ぎ)」「呉(ご)」「蜀(しょく)」の時代、『魏志』倭人伝まで、倭国の記述は中国の歴史書から姿を消します。『魏志』倭人伝には239年に、倭国の王・卑弥呼(ひみこ)が朝貢してきた記録があります。女王・卑弥呼の時代に倭国大乱が鎮められ、統一した国家がつくられていったと考えられています。
帥升が倭国王として後漢から認められたものの、その後すぐ『三国志』で有名な内乱「黄巾(こうきん)の乱」が起こったことで、後漢の権力が失墜。合わせて狗奴(くな)国と対立していた伊都国・帥升らの権威も落ちたと考えられます。『後漢書』東夷伝にある「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相(あい)攻伐(こうばつ)して歴年主なし」の記述は、この後日本列島の中で「倭国大乱」と呼ばれる小国の争いが続いた可能性を示しています。 この辺りの日本と『三国志』の時代はリンクしています。ちなみに『三国志』というと3世紀に書かれた歴史書(正史)のことで、漫画の横山光輝『三国志』や吉川英治の『三国志』は、明(みん)の時代に書かれた小説『三国志演義』を元にしたもの。 横山光輝『三国志』は、劉備玄徳(りゅうびげんとく)という青年が黄巾の乱に巻き込まれたことで乱れた世を正すことを決意。優れた武人である関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)を仲間にし、蜀(しょく)を建国し乱世を生きる姿を描いています。コミックスは全60巻、大判でも全21巻の大長編ですがいろんな機会に引用されることが多い『三国志演義』の登場人物たちのイメージをつかむには良い作品だと思います。
平田提
Dai Hirata
株式会社TOGL代表取締役社長。Web編集者・ライター。秋田県生まれ、兵庫県在住。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。ベネッセコーポレーション等数社でマーケティング・Webディレクション・編集に携わり、オウンドメディアの立ち上げ・改善やSEO戦略、インタビュー・執筆を経験。2021年に株式会社TOGLを設立。
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