谷崎潤一郎の代表作のあらすじと生い立ちについて

2020/11/18 14:54

ライター:平田提

文学 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎の代表作のあらすじと生い立ちについて

谷崎潤一郎は明治19年(1886)、東京生まれの日本の小説家です。『痴人の愛』『春琴抄』『陰翳礼讃』『細雪』などの小説の作者として知られています。作品の根底にはエロティシズムがあり、後年は日本的な美学を追究するようになりました。昭和24年(1949)に第8回文化勲章、1958年度など数回ノーベル文学賞候補になっています。

谷崎潤一郎について概略

  • 名前:谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)
  • 何で有名?:『痴人の愛』『春琴抄』『陰翳礼讃』『細雪』などの小説の作者として
  • 生年:明治19年(1886)7月24日
  • 没年:昭和40年(1965)7月30日
  • 出身地:東京市日本橋区蛎殻(かきがら)町(現・東京都中央区日本橋人形町)
  • 最終学歴: 第一高等学校英法科卒業(東京帝国大学文化大学国文科中退)

谷崎潤一郎の代表作の簡単なあらすじ

谷崎潤一郎の代表的な作品のあらすじを紹介します。エロティシズムやフェティシズムを妖しく美しく描いた作品が多く、後年は古典的な日本の美しさを追究しました。  

『刺青(しせい)』(谷崎潤一郎)のあらすじ

初期谷崎のフェティシズム、エロスが書かれた短編。刺青師・清吉の願いは、美しい女性に刺青を彫ること。ある日料理屋で見た少女の素足に清吉は惹かれるが、誰かはつきとめられない。翌年、清吉のもとに来た芸妓の使いこそ、その少女だった。清吉は古代中国の暴君・紂王(ちゅうおう)の后、末喜(ばっき)が処刑される男を眺める絵と、死屍累々の男の死骸を見つめる女の『肥料』と題された絵2つを見せる。「この絵の女はお前なのだ」という清吉に少女はおびえる。清吉は少女に麻酔を打ち、その背に巨大な女郎蜘蛛の刺青を入れる。刺青を入れ終わると少女は魔性の女になって「お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」と、鋭く清吉を見る。帰る前にもう一度刺青を見せてくれ」と請う清吉に、女は黙って肌を見せる。朝日が刺青に当たり、女の背中は燦爛(さんらん)としていた。

『痴人の愛』(谷崎潤一郎)のあらすじ

主人公・河合譲治は電気会社の技師で、色黒で背も低い冴えない男だが高給取り。ある日河合はカフェでナオミ(奈緒美)という15歳の美少女と出会う。彼女を引き取って養育することを河合は思いつき、活動写真(映画)に行く。二人は同棲、河合はナオミの勉強費用など出し続ける。二人はやがて肉体関係にもなり、入籍。河合は家事や勉強ができないナオミに幻滅するも、その肉体の虜に。奔放なナオミが慶応大学の複数の学生と不倫関係にあると知った河合は彼女を追い出したものの、未練が残る。荷物を取りに河合の家に戻ってくるナオミの魅力に抗えず、河合はナオミの不倫やわがままを受け入れた生活を続けるのだった。 ナオミは谷崎の最初の妻の義妹、せい子がモデル。谷崎は一時期せい子と恋愛関係になった。この体験が『痴人の愛』の元になっている。

『卍(まんじ)』(谷崎潤一郎)のあらすじ

関西の上流夫人たちの同性愛・異性愛を上方(かみがた)言葉で描く。主人公・柿内園子は夫に不満を持ち、光子という美しい女性と知り合う。二人は惹かれ合い、恋人関係になる。光子は綿貫という男とも付き合っていた。綿貫は性的不能だったが光子が妊娠したと嘘をつくなど、光子を偏執的に束縛していた。やがて園子と光子は綿貫から逃れようと計画的に服薬して心中未遂を図る。綿貫から逃れることはできたが、先に目覚めた光子は看病をしていた園子の夫と肉体関係になってしまう。それから光子が園子とその夫を支配するようになるが、園子たちの同性愛が新聞に報じられてしまう。3人は心中を図るが、園子だけが助かる。園子は自分だけが騙されたのではないかと疑心暗鬼のまま死ねずにいた。

『春琴抄(しゅんきんしょう)』(谷崎潤一郎)のあらすじ

『鵙屋(もずや)春琴伝』という記録を「作者」が読み解く形式で書かれた作品。盲目の美貌の三味線師・春琴に仕える佐助。春琴は名を「琴」といい、裕福な大阪の商家に生まれた。春琴は9歳のときに失明して以来、琴三弦の稽古に励んだ。4つ年上の佐助はもともと春琴の家に奉公していた丁稚(でっち)で、春琴の手を引いて師匠のもとに送っていた。佐助もやがて三味線の稽古を始め、春琴と佐助は主従・師弟関係、肉体関係を結び子供もつくったが正式には結婚しなかった。春琴は何者かに襲われ、美貌は焼けただれてしまった。嘆く春琴だったが、ある日佐助は自分の目を針で潰し、春琴と同じ世界を視ようとする。それを聞いた春琴の反応に、佐助は初めて強く二人がつながった気がするのだった。

『細雪(ささめゆき)』(谷崎潤一郎)のあらすじ

関西の上流階級、蒔岡家の姉妹の日常風景を四季の移ろいを交えて描く。次女・幸子と貞之助夫妻は三女・雪子のお見合いを成功させようと奔走する。四女・妙子は幼なじみ・啓坊とかつて駆け落ち事件を起こしたものの、まだ付き合っていた。神戸一帯の水害で妙子が孤立するが、板倉という写真家に助けられ妙子は惹かれ始めるが、板倉は亡くなってしまう。妙子は啓坊との金銭問題があり、三好という男との子供を婚前に妊娠していた。その子は死産になったが、妙子と三好は一緒に暮らし始める。雪子は貴族出身の御牧という男性と結婚することになる。幸子や雪子は別れを惜しみながらも、また日常に戻っていく。

幼少期の谷崎潤一郎。江戸情緒残る日本橋の家は斜陽に

小説家・谷崎潤一郎は明治19年(1886)、東京市日本橋区蛎殻(かきがら)町(現・東京都中央区日本橋人形町)に生まれました。潤一郎は父・倉五郎(くらごろう)、母・関(せき)の次男でした。長男・熊吉は生後3日で死亡したため、戸籍上も潤一郎が長男となりました。

祖父・久右衛門(きゅうえもん)は活版所・点灯社(街灯ランプに火を灯す仕事)・洋酒の販売など承認として成功していました。そのため幼少期は比較的裕福に育ち、潤一郎は乳母に付き添われて小学校に通うなどわがままなところがあったようです。明治31年(1898)13歳の頃には笹沼源之助ら学友と『学生倶楽部』という回覧雑誌を始め、文章の批評をお互いにしたりしていました。

父・倉五郎の商売不振があったものの、伯父・久兵衛の援助があり明治34年(1901)に潤一郎は府立第一中学校(現・日比谷高校)に入学。明治38年(1905)には第一高等学校英法科(現・東京大学教養学部)に、明治41年(1908)には東京帝国大学国文科に入学。純一郎は没落した家を支えることも考えながらも、作家になる道を選びました。

谷崎潤一郎は学生時代に才能開花。放浪生活へ

谷崎潤一郎は明治43年(1910)、小山内薫、和辻哲郎らと第二次『新思潮』を創刊。『刺青(しせい)』や『麒麟(きりん)』を発表します。明治43年は「白樺派」の雑誌『白樺』や、『三田文学』が登場、前年には森鴎外・北原白秋などによる『スバル』が出て、反自然主義文学運動が盛んになっていました。『刺青』などはすぐに反応がなかったものの、『悪魔続篇』『恋を知る頃』『お艶殺し』『秘密』などの作品を発表し、谷崎は悪魔主義の作家として評価されていきます。作家・永井荷風は『三田文学』に『谷崎潤一郎氏の作品』を書き、谷崎を激賞。

悪魔主義の作家というレッテルに縛られたためか、「芸術のための生活」のように、谷崎潤一郎の私生活は破滅的な放浪生活になっていきました。明治43年(1910)には月謝滞納が理由で大学を退学になります。

3回結婚、40回以上引っ越した谷崎潤一郎。後年の作品は関西色が出る

『谷崎潤一郎全集 第二巻』中央公論社、昭和47年11月普及版より。大正2年頃の谷崎潤一郎

(『谷崎潤一郎全集 第二巻』中央公論社、昭和47年11月普及版より。大正2年頃の谷崎潤一郎)

私生活では最初の妻・千代子と大正4年(1915)に結婚。大正5年(1916)に長女・鮎子が誕生。『父となりて』(大正5年)の中では、芸術のためにもなると思い結婚したものの、生活と芸術の間で悩むことになった心情を吐露しています。その悩みは『異端者の悲しみ』(大正6年)に表されました。

大正6~9年(1931~1934)にかけて、谷崎は「小田原事件」と呼ばれる、妻・千代子や作家で親友だった佐藤春夫とのいざこざを起こしています。 結婚後間もなく、妻・千代子の妹・せい子(当時15歳)を谷崎は引き取り、養育。やがてせい子と谷崎は恋愛関係に。これが千代子との不和を招きます。さらに佐藤春夫に「千代子を譲る」と約束するも直前で取り消し、佐藤と絶交します。佐藤春夫は『殉情詩集』に千代子への想いを表します。 せい子との一件は大正13年(1924)の『痴人の愛』に表れます。義妹・せい子がモデルとなったこの作品の小悪魔な女性・ナオミは「ナオミズム」という流行語が生まれるほどの人気を博します。

佐藤春夫との事件の記憶が残る小田原を離れ、谷崎は横浜へ。関東大震災(1923年)をきっかけに、今度は兵庫県武庫郡本山村(現・神戸市東灘区)に移住。谷崎はこのときを含め、生涯で40回近く引っ越しを繰り返しました。

『卍(まんじ)』(1928)や『蓼(たで)食ふ虫』(1929)には上方(関西)の言葉や関西上流階級の文化が作品にも色濃く出るようになります。

『源氏物語』の古典回帰、老いもネタにした晩年の谷崎潤一郎

谷崎は昭和5年(1930)に千代子夫人と離婚。知人や友人に宛てて千代子を佐藤春夫と結婚させるという三人連名の挨拶状を送ります。 昭和6年(1931)に谷崎は文藝春秋社の『婦人サロン』記者、古川丁未子(とみこ)と再婚。一方で丁未子との結婚直後から谷崎は根津清太郎の夫人・松子に惹かれていきます。

昭和6年の『吉野葛(よしのくず)』『盲目物語』に出てくる女性のイメージは松子を意識したものとされています。松子は大阪の藤永田造船所の永田一族、森田安松の次女で、嫁いだ根津家は300年も続いた大阪の木綿問屋。いずれ谷崎と松子は恋愛関係となり、松子は夫と別居することが増え、谷崎も丁未子と離婚(昭和9年)。谷崎と松子は昭和10年(1935)に結婚します。

日本古来の美の在り方を書いた随筆『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』(1933)は松子との生活の中で書かれたもの。これ以降、谷崎は日本の伝統文化に強く関心を持つようになります。昭和10年(1935)から谷崎は『源氏物語』の現代語訳に着手、以降『潤一郎新訳源氏物語』として刊行します。

第二次世界大戦の中、数度印刷禁止になった小説『細雪(ささめゆき)』(1943~)は関西の上流階級の4姉妹を描いたもので、これは松子の旧姓・森田姉妹がモデルになっています。

昭和22年(1947)、60歳になっていた谷崎は高血圧症に苦しみます。この「老い」の経験が、谷崎文学にそれまでなかった変化をもたらします。『少将滋幹(しょうしょうしげもと)の母』(昭和24年)にも老いの自覚が反映されています。

谷崎はその後も『幼年時代』(昭和30年)『鍵』(昭和31年)などを執筆。老人の滑稽さを描いた『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1961)など、この頃の谷崎作品には生活からの取材も多くなっていました。 高血圧にはずっと悩まされ、狭心症など肉体的な衰弱が強まり、昭和40年(1965)7月3日には腎盂炎(じんうえん)に心不全を併発し、谷崎は79歳でこの世を去りました。

参考資料:

・谷崎潤一郎『細雪』『春琴抄』(新潮文庫) ・『新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎』(新潮社) など

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