卑弥呼とは戦後最も有名になった歴史上の人物?本当にシャーマンだったのか
2020/11/24 22:28
ライター:平田提
歴史 日本史学び直し 卑弥呼 邪馬台国 弥生時代卑弥呼(ひみこ)とは、日本の弥生時代に、邪馬台国(やまたいこく)を治めたとされる女王。古代中国の歴史書『「魏志」倭人伝』によると、2世紀の倭国(わこく、当時の日本)は多くの国による覇権をめぐった争い「倭国大乱(わこくたいらん)」が続いていました。ある女王が立ったとき、大乱が鎮まったといいます。その女王こそが卑弥呼でした。
『「魏志」倭人伝』によると239年に卑弥呼は大夫(たいふ)・難升米(なとめ)らを帯方郡に遣わし、魏の天子に朝貢したいと申し入れたそうです。魏の皇帝は卑弥呼を親魏倭王(しんぎわおう)と認めて金印を与え、銅鏡100枚などを贈ったとされます。240年、帯方郡の太守・弓遵(きゅうじゅん)は使者に印綬を託し、卑弥呼を倭王に任命しました。
帯方郡とは当時、魏が朝鮮半島に置いた出先機関。戦乱の続く倭国では武器に使う鉄の入手が重要でした。倭国は朝鮮半島から鉄を輸入していたので、その交易路の確保がまず必要だったのです。また邪馬台国は近隣の狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)との戦いを有利に進める必要があったようです。そこで魏の後ろ盾が大事になりました。
当時の中国は近隣諸国に絶大な影響力を持つ大国でした。他の国を支配する権利を認める代わりに中国が権力的に上に立つ「冊封(さくほう)関係」を結んでいました。「親魏倭王」の称号と金印はその証です。これは卑弥呼以前に倭国王がもらった「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」(志賀島の金印)と似たようなものです。
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「親魏倭王」の称号は、現在のイラン周辺にあったクシャーナ朝が授けられた「親魏大月氏王」と並ぶもの。邪馬台国はクシャーナ朝と2大国として扱われたんですね。なぜ魏は卑弥呼に親魏倭王の称号を与えたのでしょうか。
中国では220年に中国の後漢(ごかん)が滅亡し、魏・呉・蜀(ぎ・ご・しょく)の『三国志』として知られる時代に入ります。卑弥呼が魏に朝貢した当時は、蜀の勢力が衰えていて、魏は呉の動向に目を向けていました。呉の背後に倭国があったため、邪馬台国を勢力として期待したと考えられます。このように東アジア情勢と日本の内政は以降の歴史でもリンクしていきます。
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あなたは卑弥呼に対してどんなイメージがありますか? まじないによって政治をする、巫女(みこ)やシャーマンのようなものでしょうか。
このイメージは『「魏志」倭人伝』に
「鬼道(きどう)に事(つか)えて能(よ)く衆を惑わす」
書かれてあったことからつくられたものです。卑弥呼は神託(神さまのお告げ)を受け、夫は持たず、弟が政治の補佐をしていたようです。これは『古事記』、日本神話に語られるアマテラス(姉)とスサノオ(弟)的でもあります。さらに『「魏志」倭人伝』には卑弥呼は隠れて出てこない王だったと記述があります。姿を普段は見せない王様は、ベトナムやペルシャの王朝にも見られました。『古事記』でアマテラスが「天の岩戸」に隠れて出てこない記述を連想させます。
ちなみに卑弥呼が姉でスサノオが弟、卑弥呼が天の岩戸に隠れる、という描写が手塚治虫のマンガ『火の鳥 黎明編』に登場します。
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本当に卑弥呼がシャーマンだったのか、疑問は残るという説もあります。「鬼道」という表現はいかにも怪しいまじないを想像させますが、邪馬台国は29ばかりの国の連合で、それらを果たしてまじないだけで治められたのか、というのです。「鬼道」というのは中国の信仰と違うから『「魏志」倭人伝』の編者・陳寿(ちんじゅ)にそう呼ばれた可能性があります。卑弥呼がどのようなまじないをしていたかどうかは不明ですが、多くの国を束ね、争いを鎮める政治腕力は確かな王だったのではないでしょうか。
卑弥呼が活躍した400年以上後の日本の『日本書紀』、その神功皇后(じんぐうこうごう)の項に『「魏志」倭人伝』の卑弥呼についての記述が引用されています。神功皇后は第14第天皇・仲哀(ちゅうあい)天皇の后で、当時の朝鮮半島にあった高句麗、新羅、百済に遠征したとされます。 この記述から、卑弥呼=神功皇后という説が江戸時代までありましたが現在では正確ではないとされます。『「魏志」倭人伝』には倭国から朝鮮出兵の事実がなく、『古事記』『日本書紀』には卑弥呼のように中国に日本が朝貢した事実がありません。また神功皇后が出兵したとされる百済・新羅は4世紀にできた国で、卑弥呼の3世紀と時代のずれがあります。
鎌倉時代に卜部兼方(うらべのかねかた)が『日本書紀』への注釈『釈日本紀』で「邪馬台は倭(倭)の音をとってつくられた名称だ」と書き、北畠親房(きたばたけちかふさ)の『神皇正統記』にも「卑弥呼は神功皇后だ」と書かれていました。
室町時代になると僧・周鳳(しゅうほう)が『善隣国宝記』の中で、倭国と日本が同一なのか疑問を呈しています。江戸時代、松下見林に『異称日本伝』を発表し、卑弥呼を神功皇后と見た上で、卑弥呼と争った卑弥弓呼を神功皇后が退けた忍熊王(おしくまのみこ)ではないかとしていました。ただここまでは『日本書紀』を無批判に受け取ったもので、明治時代に白鳥庫吉、内藤虎次郎など卑弥呼の存在や邪馬台国の位置について論争が始まった頃には、神功皇后と卑弥呼と断定する論調は少なくなります。
戦前の日本史の教科書は天照大神から始まり、神武天皇や大和武尊(やまとたけるのみこと)、神功皇后などの記述もありました。しかし戦後は縄文文化から日本史の教科書はスタートするようになりました。卑弥呼も『「魏志」倭人伝』の研究が始まり教科書に掲載開始。学者によっては「終戦後一番有名になった日本史の人物=卑弥呼」ともいわれます。
『魏志』倭人伝によると247年に邪馬台国は帯方郡に遣いを送りましたが、その頃には卑弥呼は亡くなっていたようです。その後邪馬台国は男王を立てますが、争いが起きたため、卑弥呼の宗女(同族の女性)の壱与(いよ、とよ※)という13歳の少女が王となりこれを鎮めたといいます。
※臺(台)与(とよ)の誤記ともいわれる
壱与は「親魏倭王」の称号を継ぐことを認められました。しかしその後に中国では魏が滅亡、晋(しん)という王朝が起こります。その後も東晋、西晋が起こる混乱が続き、北魏(ほくぎ)が439年に立ちます。朝鮮半島では313年に高句麗(こうくり)が楽浪郡と帯方郡を滅ぼします。これにより邪馬台国は中国との交易が不可能になり、その影響で大和朝廷が武力を背景に勢力を増した可能性があります(邪馬台国九州説)。
邪馬台国が大和・畿内(奈良近辺)にあったという説をとると、卑弥呼が天皇家の系譜に連なる人物だったのか、あるいはどういう関係だったのかを考える必要があります。
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奈良の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓という説があります。また平成10年に黒塚古墳で卑弥呼が魏からもらったとされる三角神獣鏡が出たことから邪馬台国畿内説が強くなりましたがまだ確定には至っていません。卑弥呼が鏡を地方の豪族に分け与えたとも考えられるためと、一部日本産の鏡があると思われるためです。 ただ三角縁神獣鏡の製作年や記述などから、『「魏志」倭人伝』に書かれた卑弥呼の遣使が架空ではないことは分かってきています。
平田提
Dai Hirata
株式会社TOGL代表取締役社長。Web編集者・ライター。秋田県生まれ、兵庫県在住。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。ベネッセコーポレーション等数社でマーケティング・Webディレクション・編集に携わり、オウンドメディアの立ち上げ・改善やSEO戦略、インタビュー・執筆を経験。2021年に株式会社TOGLを設立。
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